3歳から日本舞踊を習っていた。
毎週のお稽古が楽しくて仕方なかったし、週に一度では物足りないくらいで、家でもよく練習をしていた。
父の晩酌のショータイムにもなっていたりして。
先生(まぁ、いわゆるお師匠さん)は、厳しい人でした。
昭和のお稽古ごとなので、楽しくやりましょうねぇ…的な感じではなかったなぁ。
現代のレッスンのように、何時からっていう縛りが無いので、自分よりも早くお稽古場に来ている人がいれば、順番を待たなければならない。
ただし、やむを得ない用事があったりすると、交渉して入れ替えたりもできるのだ。
一人当たり、45分から1時間前後のお稽古を着物を着て正座をして見ながら待っていなければならない。
でも、それが普通だから、苦痛と思ったことも無かったし、自分の知らない踊りをみているのは勉強になったし、楽しかった。
子どもだったから、勉強するという意識はあまり無いのだけれど、今思えば、手の使い方、細かな仕草など、人の技を見て盗むと言った感じだろうか。
人のお稽古を見るのも稽古のうち、と言う訳で、子どもといえど、落ち着いてみていられなければお師匠さんに叱られるのも当然だった。
お稽古場で仲よくなった同じ年頃の友達姉妹は、他の人のお稽古を見ているのが苦手で、よく脱出したりして起こられていたのを覚えているw
そんな厳しい師匠(自分の祖母くらいの年齢だった)に教えていただいていたのだけど、その厳しさと緊張感が心地よかった。
お稽古を終えて外に出ると、「はぁーっ」と言いながらのびをしている私を見て、いつも母は「そんなに窮屈に感じているのに、何でお稽古が好きなのかわからない」と言って笑っていた。
その緊張感や厳しさと、上手に踊れた(表現できた)ときにお師匠さんに褒められた時の嬉しさが絶妙なタイミングで心地よかったのだと思う。
褒められるというよりは、喜んでくれているという感じだったなぁ。
それが嬉しかったのを覚えている。
アメと鞭なんだろうか。
サルサインストラクターをしている
サルサ同期の彼女のブログを読んで、自分が日舞のお稽古をしていた時のことを思い出して、ブログに書いてみました。
確かに、現代の習い事は「楽しむ」が先にきているなぁ…と実感。
自分がサルサを始めた頃は、日舞を習っていた頃のような厳しさを求めていたのかもしれない。
それは、ある意味自分のための貴重な時間なんだもの。
楽しければいいのなら、他のことを選ぶなぁ。同じお金を使うなら、お酒でも飲んでいた方がいいでしょう。
習いたい、学びたいという気持ちからそこへ行くのだから、吸収したい欲求を満たしたいと思うのが本来の姿で自然なんじゃないか。真面目とかそういうことじゃないような気がする。
楽しければいいのであれば、なぜ学びを選ぶのだろう?
ぜーんぜん理解できない。
習い事もビジネスになってしまってから、ちょっとおかしなことになっているのかもしれない。
確かに、私が日舞を習っていたお師匠さんもビジネスですよ、それで生活しているのだから。
時々、舞台に立ち、出演料を稼ぐこともあったでしょうけど。
でも、現代の習い事のように雑誌やら、ネットやら、多種に渡る媒体を使って宣伝しているわけでもなく、もっと濃い信頼関係の中で新しいお弟子さんを少しずつ増やすというつながりなので、ビジネスとしてはなかなか厳しいものだったはず。※古典芸能ならではの云々はここでは省きます。
そう、習う方も「ちょっとつまんで、ダメだったらやめよう」みたいな感覚ではなかったのだ。
お互いの真剣さが支えだった。現代では希少なんだろうなぁ、そういうの。
そういう真剣勝負が無くなってしまうのはとても寂しいこと。
子どもにたくさん習い事をさせるお母さんの気持ちはとても理解できない。
何を修得させたいのか。
スイミング、英会話、ピアノetc…
カルチャースクールで多数の講座を受ける人や、スポーツクラブで多数の講座を受ける人も同様に。
本当に何かを学びたいなら、「みんなで楽しく」なんてどうでもよくて、自分だけが上達すればいいし、自分のために学べばいい。(利己主義という意味ではない)
まぁ、多くの日本人の感覚がおかしくなってしまっているのを日々嘆いていても仕方ない。
でも、「日本人がにこにこ親切なのはビジネスシーンだけで、犬や猫を可愛がるくせに電車やバスで誰かに席を譲ることさえできない」と、日本人じゃない人に言われると悲しくなってしまう。
善意でもなんでもなくて、当たり前のことをやりたくない人があまりにも多いから。
電車で通勤していると日々いろんな思いをする。
サルサを習い始めた頃のことは、そのうち書くとしよう。